戻る

「もうひとつの日本ジャンボリー」

さて、みなさんにご紹介したいお話しがあります。
昨年の静岡 朝霧高原での15回日本ジャンボリーでのことです。
これは、実話です。ショックな事も含まれています。

彼は、父親の仕事の関係で小学校入学と同時に兵庫県芦屋市へと引っ越しをしました。
小学校三年生になると、カブスカウトになり、毎週末集会に通います。
勉強はさっぱり、運動もからきしですが、ボーイスカウトは大好きです。
やがて、六年生になりボーイ隊に上進しました。
ある、キャンプのときには 『ドリル訓練』といって朝から晩まで回れ右。右向け右。左向け左。
ドリルガードではなく、その場に穴が開くのでドリル訓練。
そんなメチャクチャな活動でも、彼は大好きなボーイスカウトを休みません。
やがて、シニア隊(現在のベンチャー隊)に上進します。

そして・・・・平成7年1月17日を迎えます。そう、阪神淡路大震災です。
この震災では多くのボーイスカウトが活躍しました。これは皆さんもご存じの通り。

この物語の主人公も、ある避難所のリーダーとして活躍しました。
高校生の彼は、血と泥で染まったネッカチーフを片時も外すことなく、
スカウトとして、その使命を全うしました。
しばらくすると、彼のスカウト仲間、隊長が合流し、その避難所は彼らの隊が管理をすることに。
管理だけではなく、多くの救援活動も行いました。
がれきの下から何人も引っ張り出したそうです。
引っ張り出した子供達の多くは、残念ながら神様のもとに。
そんな中、小さな男の子と女の子だけが、助かったそうです。
その二人のご両親たちは、涙を流して感謝の言葉を述べられ、生活が少し落ち着いた後、
彼のもとを訪ねました。何百万円も包んで来たそうです。
彼は、お気持ちだけで結構です、と断りました。それでも・・・という親御さん達に対して彼は、
『一つの約束をして下さい』とお願いしました。
『大きくなったら、この二人をボーイスカウトに入れて下さい』と。


月日は流れ、彼は生まれ故郷の○○に帰ってきました。
もう、ここから離れることは無いでしょう。

ある日、彼が家の近所を歩いていますと、
そこには青い半袖半ズボン。黄色のネッカチーフ。そしてコグマの帽子。
そうです。カブスカウトが組で歩いていました。

彼は、いても立ってもいられなくなり、カブ達を引率している指導者に
『僕はスカウトです。こちらに引っ越してきたのですが、まだ活動する団が決まっていません。
 僕を入れてもらえませんか?』

私達は大歓迎でした。それ以来、私の右腕として頑張ってくれています。

私がジャンボリーの派遣隊隊長に決まったあと、彼に『どうする?』と訪ねますと、
『い、いきますぅ〜』。副長補として、一緒に行くことになりました。

ジャンボリー期間中、昼に居眠りをしていた彼が、突然『わぁ〜!!!』と飛び起きました。
なんでも、芦屋市のスカウト時代の隊長が、見学として来られるそうで、
アリーナで待ち合わせをしているそうです。『い、いきますぅ〜』、走っていきました。
その日の夜、彼がしみじみと語ってくれました。

アリーナに着くと、隊長がすでに待ってくれていました。二人のスカウトを連れて。
一人は男の子、左の胸には赤い1級章を。もう一人は女の子、青い二級章をつけていました。
そう。あのときの二人の子供です。
二人のご両親は、彼との約束を守り、子供をボーイスカウトに入れたのでした。

残念ながら、派遣隊として参加出来なかった二人を、隊長が、彼と引き合わすために
車に乗せて、兵庫県から朝霧高原まで連れてきたのでした。

三人は、涙を流しながら手と手を握りあったそうです。
二人のスカウトは、『ありがとうございました、ありがとうございました』と
何度も大声で叫んだそうです。

そんな出逢いがありました。ジャンボリーだからこそ、の出逢いです・・・・・・。



                    こちら加賀の国「うるさいおじさん」ブログより